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アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。 ==略歴〔本項の参考文献:Freeman, J. W., et al. (1987), ''Toscanini: Portraits of Greatness'', Treves Puglishing Company. p. 75. Sachs, H. (1978), ''Toscanini'', Weidenfeld and Nicolson.〕== * 1867年 3月25日、イタリア北部の町パルマのオルトレトレンテ(労働者階級が住む地域)ボルゴ・サン・ジャコモ(現ボルゴ・ロドルフォ・タンツィ)13番で生まれる。父クラウディオは仕立屋。母パオラ(パオリーナ、旧姓はモンターニ)は裁縫師。アルトゥーロは第1子で、唯一の男児。(子供は計4名。) * 1871年 初めて歌劇場に連れて行かれ「仮面舞踏会」を聴く。 * 1876年 パルマ王立音楽学校に入学。当初は通学生。後に寮生となる。 * 1885年 9年間の厳しい教育の後、チェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業。(ピアノも最高点。)巡業歌劇団と首席チェロ奏者・副合唱指揮者の契約を結ぶ。18歳の若者にとってこれは名誉な事であった。 * 1886年 6月30日、歌劇団のブラジル リオ・デ・ジャネイロ公演において、ヴェルディの「アイーダ」の指揮者として突然デビューすることとなる。帰国後の11月4日、トリノのカリニャーノ劇場でカタラーニの「エドメア」でプロ指揮者としてデビュー。 * 1887年 2月5日、ミラノ・スカラ座におけるヴェルディの「オテロ」初演で第2チェロ奏者を務める。以降10年間、地方歌劇場を回って指揮をする。 * 1892年 ミラノ ダル・ヴェルメ劇場でレオンカヴァッロの「道化師」を初演。ジェノアのカルロ・フェリーチェ劇場でフランケッティの「クリストフォロ・コロンボ」を指揮。(なおこれはヴェルディがトスカニーニの指揮を聴いた唯一の機会であった。) * 1895年 トリノ レージョ劇場の首席指揮者に就任。ヴァーグナーの「神々の黄昏」をイタリア初演。 * 1896年 2月1日、レージョ劇場でプッチーニの「ラ・ボエーム」初演。3月20日、トリノで自身初の管弦楽演奏会を行う。 * 1897年 6月21日、ミラノでカルラ・デ・マルティーニと結婚。 * 1898年 3月21日、トリノで第1子となる息子ヴァルテル誕生。ヴェルディの「聖歌四編」のうち3つをイタリア初演。31歳の若さでスカラ座芸術監督に任命され、12月26日、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でシーズン初日を飾る。 * 1899年 スカラ座でヴァーグナーの「ジークフリート」をイタリア初演。 * 1900年 1月16日、長女ヴァッリ誕生。スカラ座でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をイタリア初演。ミラノ リリコ劇場でレオンカヴァッロの「ザザ」を初演。プリマドンナ ロズィーナ・ストルキオと恋に落ちる。 * 1901年 1月、ミラノでヴェルディが死去。トスカニーニはその後の追悼演奏会などで指揮。9月28日、次男ジョルジョ誕生。この年以降1906年まで4回にわたり、アルゼンチン ブエノス・アイレスのオペラ座で指揮。(ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、プッチーニ「蝶々夫人」、チレア「アドリアーナ・ルクヴルール」など) * 1903年 4月を以てスカラ座芸術監督を辞任。原因は聴衆や新しい運営委員会との不和。 * 1906年 父クラウディオ、死去。6月10日、次男ジョルジョがジフテリアのため死去。スカラ座に復帰。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」イタリア初演をめぐり作曲者といざこざ。 * 1907年 トスカニーニの主張に従った新しいオーケストラピットが完成し、「神々の黄昏」で披露となる。12月5日、次女ヴァンダ誕生。 * 1908年 スカラ座にてドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」イタリア初演。スカラ座と再び不和が生じ、辞任。インプレサリオ ガッティ・カザッツァを連れてニューヨーク市のメトロポリタン歌劇場に移り、グスタフ・マーラーと共に首席指揮者となる。11月16日、カルーソーを配した「アイーダ」で米国での初指揮。 * 1910年 パリにてメトロポリタン歌劇場引っ越し公演を行う。(プッチーニ「マノン・レスコー」フランス初演など)12月10日、プッチーニの「西部の娘」初演。 * 1912年 夏期にブエノスアイレスのコロン劇場で指揮。 * 1913年 メトロポリタン歌劇場にて管弦楽指揮者としての米国デビュー。3月13日、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」米国初演。ヴェルディの出生地ブッセートで行われた生誕100年記念祭にて指揮。 * 1915年 メトロポリタン歌劇場を辞任。原因は仕事上の数多くの幻滅や不和と女性問題(ソプラノ歌手兼女優のジェラルディン・ファーラー)。第1次世界大戦が始まり、帰国。以降1918年までは、イタリア国内での慈善演奏のみに出演。 * 1917年 バンドを率い前線にて慰問演奏。戦火の中の勇気に対し勲章を授与される。 * 1919年 議会選挙で、元ジャーナリスト ベニート・ムッソリーニが党首を務める社会主義者の一派「サンセポルクリスティ(後のファシスト党)」の候補者名簿に名を連ねる。 * 1920年 スカラ座管弦楽団を再編成し、(イタリアでの演奏も含む)北米演奏旅行を行う。その際、ニュージャージー州キャムデンでビクターのために初めてのレコード制作を行う。公社となったスカラ座より総監督に指名される。 * 1921年 12月26日、1917年以降定期公演が途絶えていたスカラ座でシーズンを再開する。演目はヴェルディの「ファルスタッフ」であった。 * 1922年 ローマ進軍後、ムッソリーニが権力を掌握。トスカニーニはこの新たな独裁者に対する抵抗を始める。 * 1924年 スカラ座にてボイトの「ネローネ」初演。母パオラ、死去。 * 1926年 ニューヨーク・フィルハーモニックを初指揮。スカラ座にてプッチーニの「トゥーランドット」初演。 * 1927年 ウィレム・メンゲルベルクと共にニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者に指名される。同フィルを指揮して初めてのラジオ演奏会を行う。 * 1929年 ヴィーンとベルリンでスカラ座の引っ越し公演を行い歴史的成功を収めるが、直後にスカラ座を辞任。理由は、ムッソリーニがスカラ座を政治的に利用しようとしていることを察知したため。8月16日、ミラノで初孫(ヴァルテルの息子)ヴァルフレード誕生。 * 1930年 ニューヨーク・フィルを率いて欧州演奏旅行を行う。バイロイト音楽祭で非ドイツ系指揮者として初めて指揮。(「タンホイザー」と「トリスタンとイゾルデ」)ニューヨーク・フィルの首席指揮者に指名される。 * 1931年 演奏会前にファシスト党歌「ジョヴィネッツァ」の演奏を拒否したとして、ボローニャで暴漢に襲われる。ファシスト政権下のイタリアでは演奏しないと決意。バイロイトで指揮。(「タンホイザー」と「パルジファル」) * 1933年 ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団に初客演。以降、1937年まで客演を続ける。ドイツにおけるヒトラーの支配が強まったため、バイロイトでの指揮を拒否。6月19日、2人目の孫(ヴァッリの娘)エマヌエラ・ディ・カステルバルコ誕生。 * 1934年 10月2日、3人目の孫(ヴァンダの娘)ソーニャ・ホロヴィッツ誕生。 * 1935年 BBC交響楽団を指揮し、英国デビュー。(1937~39年にも客演。)ザルツブルク音楽祭で初指揮。(「フィデリオ」と「ファルスタッフ」)当地はファシストと無関係の音楽的中心地であった。 * 1936年 ニューヨーク・フィルを辞任。ザルツブルクで「マイスタージンガー」等を指揮。パレスティナ交響楽団(現在のイスラエル・フィル)の結成演奏会を指揮するためパレスティナに自費で初渡航。 * 1937年 ザルツブルクにて「魔笛」等を上演。舞台演出を伴うオペラ全曲上演としてはこれが最後となる。12月25日、NBC交響楽団の首席指揮者としてラジオ演奏会を開始。 * 1938年 オーストリア政府がドイツのナチ政権と妥協する気配を察し、予定されていたザルツブルク音楽祭をキャンセル。ファシズムを逃れてきた演奏家によるコンサートをスイス ルツェルンにて開催(現在のルツェルン音楽祭)。パレスティナに再渡航し演奏会を行う。 * 1939年 義理の息子(ヴァンダの夫)ヴラディーミル・ホロヴィッツをソリストとしてルツェルンで演奏会を行う。以後、第2次大戦終結まで欧州では演奏しなかった。 * 1940年 NBC響を率いて南米演奏旅行。 * 1941年 春、NBC響をいったん辞任。1941~42年のシーズンはNBC響と契約を交わさず、フィラデルフィア管弦楽団などに客演。 * 1943年 9月、雑誌「ライフ」に公開書簡『米国民の皆さんへ』を掲載。12月、「諸国民の賛歌」を指揮するトスカニーニの姿を中心とした戦意高揚のための短編映画が製作される。 * 1944年 ニューヨーク市 マディソン・スクエア・ガーデンにて赤十字慈善演奏会を行う。 * 1946年 帰国し、5月11日、爆撃で破壊されたスカラ座の再開演奏会を指揮。イタリアでの選挙と国民投票に参加。 * 1947年 結婚50周年。 * 1948年 3月20日、NBC響との演奏会が初めてテレビ中継される。6月10日、スカラ座でボイトの2作品の一部を上演。舞台演出を伴うオペラ上演はこれが最後となった。 * 1950年 NBC響を率いて米国演奏旅行。 * 1951年 6月23日、妻カルラ死去。73歳。 * 1952年 スカラ座でお別れ演奏会を行う。英国 フィルハーモニア管弦楽団に客演。これらが欧州での最後の指揮となる。 * 1954年 4月4日、カーネギー・ホールでNBC響と最終演奏会を行い、68年間に及ぶ指揮者人生を終える。(6月に録音作業のため2度指揮する。)夏に帰国。 * 1955年 2月28日、米国に戻り、以後帰国しなかった。自宅で息子ヴァルテルらと共に発売可能な録音の選定等を行う。 * 1957年 元日早朝に脳血栓の発作を起こし、1月16日、ニューヨーク市 リバーデイルの自宅にて死去。89歳。ミラノの家族墓地に埋葬される。 == 人物 == スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされている。ロマン主義のスタイルを脱却した演奏法は音楽演奏における新即物主義に分類され、ライバルのフルトヴェングラーと対極をなした。速く正確なテンポ、統一したアンサンブル等は戦後の演奏法の規範となった。徹底した楽譜至上主義ともいわれているが、しばしば部分的にオーケストレーションを改編することもあった。楽譜至上主義・即物主義的スタイルはカラヤンをはじめ多くの指揮者に多大な影響を与えた。レパートリーは膨大で、イタリア・オペラやレスピーギなどのイタリアの管弦楽作品のみならず、バイロイト音楽祭においてワーグナーを振り(ドイツ系以外の指揮者としては初登場)、ベートーヴェンやブラームスといったドイツ音楽やチャイコフスキーなども得意とした。 『』や『トゥーランドット』等の重要なイタリア・オペラを初演している。戦後はNBC交響楽団を起用し数多くのレコーディングを行った。また、リハーサルの厳しさで知られ、駄目出しの多さからトスカノーノとあだ名された(後述)。 トスカニーニは極度の近視であり、譜面台に置いた楽譜が見えなかったため本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。しかし、1954年4月4日の演奏会(オール・ワーグナー・プログラム・コンサート。その時に演奏していた曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレ)での記憶障害により指揮を一時止めてしまった〔ここで完全に演奏が止まったとの説明も広く流布しているが、山田治生『トスカニーニ 大指揮者の生涯とその時代』 2009年、では各種録音や文献との対比検証から、演奏上のトラブルと指揮の一時停止はあったものの、演奏自体は止まることなく指揮は再開され、演奏会自体は失敗というほどではなく終えられたとの説を支持している〕。 そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された(引退は演奏会の前に計画されていた〔Sachs, H.(1978), ''Toscanini'', pp. 304-309.その他〕)。引退に際し公開された引退表明の手紙(同年3月25日付)には以下の一文も含まれる。〔Sachs, H. (editor), ''The Letters of Arturo Toscanini'', Knopf, 2002. p. 445.〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルトゥーロ・トスカニーニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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